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お寺の歴史

~お寺について~ 

寺院名  五葉山 一華寺 (ごようざん いっけじ)

宗 派  臨済宗(禅宗)

本 尊  如意輪観世音菩薩

手にした如意宝珠で思うままに財をあたえ、宝輪で煩悩を打ちくだき、人々を苦しみから解放し、智慧と福を与えてくれる仏様です。

寺 風  修行・感謝・観音さま

信心のことば  振り向けばそこに観音様がいて

仏教にはあらゆる「気づき」の鍵が秘められています。“禅に生きる“のはむずかしいことではありません。現実生活に自信をもって生きることです。一度お寺に足を運んでみてください。
和尚 守屋佑光(もりやゆうこう)

 

 

~お寺の歴史~ 仏通寺別院創建

呉海軍鎮守府の開設は明治22年である。
その翌年、改進党から衆議院に立侯補して当選した豊田実頴(みとし)という人は、誠に硬骨の人で、漸く官僚主義、軍国主義に向う政府に対して、人民の負担軽減の立場から敢然と抗言した。人柄は謹厳寡黙で、野心は少なく、25年の次の選挙には、政府の大干渉に呆れて本業の医師に戻り、専ら民生に尽した。歴代の呉市長も氏を徳として市の最高顧問として遇した。

明治19年に始まった呉海軍創設の準備は、農漁村であった呉浦の大変革であった事は勿論である。海軍のみが設営されたのならばとも角、海軍工廠があった事が呉浦の悲喜を増幅した。19年に海軍による土地の買い上げが実施されて、農家は大半移転させられる。これが浦の大変貌であることは勿論である。しかしそれだけなら移転補償金で浦はまだ平穏であり得たろう。そこに軍港工事の労働者が流入し、海軍工廠の併設によって、15,6年間に浦の人々に十倍する他国の次男三男たち、それに海兵団の設置によって徴兵された水兵たちの群が浦に溢れた。そうなると補償金を手にした土地の人と、そして海軍工廠に職と新天地を望んだ他郷者と、それぞれの夢と思惑が入り乱れる。

他郷者の中には大樹の下に蓆を敷いて雨露を避け、海岸に古い帆を天幕のように張って、旧農家の廃屋から古畳を盗んで敷いて、職を海軍に探すものもあった。呉市には借家建てと称する安普請の家が建ち並ぶ。

こうして新開地であり植民地のような雑多な生活が、呉市の生活感情を今に支配している。
そこには狼雑な庶民の赤裸々な生き様もある。しかし同時に、最も開放的な自由な精神も息吹く。海軍士官の颯爽とした身装りと国際感覚は、明治維新の最大の弊害である国粋主義と、明治政府の帝国主義の渦の中にあって、奇妙にも救いであった。若い海軍士官の中には三原市の仏通寺まで参禅する者が多かった。

三原市の仏通寺管長の寛量和尚が初めて海軍鎮守府に招かれて講話をしたのは明治27年10月である。その時出会った人が前記豊田実頴氏で、氏は翌明治28年、自宅医院に隣接した土地に小庵を建て、寛量和尚の常宿ともし、そこで毎月参禅会も開いた。小さな標札には『仏通寺事務所』とあった。

今、三原市仏通寺の開山堂登り口に向って、活龍河畔に建っている大燈籠はその当時海軍士官連中が寄進したものである。参禅した海軍士官とは別に、10万人に達した他郷からの移住者の中には、禅宗を奉ずる人も大勢いた。、
明治38年寛量さんは『仏通寺事務所』の小さな標札を『仏通寺別院』と書き改めて標札も大きくした。

そして愛弟子であった豊田知戒和尚に持仏であった如意輪観音像を与えて、常住せしめた。知戒師は豊田郡府中市の出身で、豊田伊太郎の第七子である。
俗名益二。その時寛量和尚は知戒和尚をわが養子として寛厚の道号も与えた。
香川寛厚和尚、20才。

寛厚和尚の毎日は、ただ托鉢であった。海軍士官に法友が大勢あった。
後の海軍大臣嶋田繁太郎とはその死に至るまで文通があった。士官達は毎週土曜日には『別院』で湯豆腐で痛飲した。寛厚和尚も酒豪であった。裁判所判事、高等中学教師、弁護士など当時の知識人が来遊した。しかし、寛厚和尚の毎日は托鉢であった。
その姿を見て二人の若者が弟子入りをした。水馬隆男と平田源太郎である。隆男は寛邦と道号し、後に久井町持地庵に住職した。源太郎は洋服商を営み、生涯『別院』の檀家総代を勤めた。
更に山村寛道は幼少のころより徒弟として入寺し、後に世羅郡善福寺に住職した。

寛量さんは月に一度は『別院』の参禅会に出講しその都度、米野菜を背負って寛厚和尚を励ました。寛厚和尚の甥に当たる府中市の豊田光行さんは「寛量さんはほんとうに生き仏のようなやさしいお人で『光っちゃん、いなりもちでも買ってお喰べ』と、二十銭ほど毎度お小遣いを頂戴した。子供心にも恐縮したけれども、本当に慕わしいご老師様でした」と語る。


寛量さん亡き後になったが、大正10年豊田実頴氏は北迫山麓の松林を300坪寄進して、寛厚和尚は本堂庫裡を造営し、寛量禅師を開山と仰いで、正式の寺号を『五葉山 一華寺』とした。
曽て寛量さんが住職していた、仏通寺塔頭一華庵に由来する。

更にいえば、達磨大師の偈 『我れ自らこの国に来り、法を伝えて迷情を救う、一華五葉を開いて結果自然に成らん』に由来する。

一華寺は昭和20年7月2日大空襲によって灰侭に帰し、寛厚和尚も25年12月12日、65才で遷化した。

昭和20年まで呉市は海軍水兵と職工でひしめいていた。
人口は37万人で連合艦隊が入港すると更にふくれあがった。
一華寺にも海軍士官が多く参禅し、檀家の数も現在の2倍近かった。
戦災と敗戦で呉市の人口は10万人に減った。一華寺の檀家も5分の1に減った。爆撃で寺も庫裡も焼失し、仮普請で戦後の十数年を過ごした。

3世寛光和尚は昭和43年にまず坐禅堂を建てた。その開単式に佛通寺管長は次の偈を寄せた。

少林誕節万緑稠 透過雲関坐祖頭
寛恕霊光厳選佛 一華五葉送春幽

昭和51年には本堂と庫裡を再建した。
檀家も現在の数まで回復した。
3世寛光和尚は口唇皮上に光を放つ底の人だから これまでに寺の外での講演は2000回に及ぶ。
平成14年秋に4世佑光和尚が住職を継承した。